戦国時代のロマン・謎を推理する・明智光秀

本能寺の変の謎

明智光秀の「本能寺の変」は歴史好きの方でなくても良く知られていますね。そして「謀反人」「三日天下」などと言われ悪人として描かれることの多い人物です。

しかし、光秀が「本能寺の変」をなぜ起こしたかについては謎であり、いくつかの説があります。推理をしてみるのも歴史の面白さでもありますね。

「明智光秀の生涯と丹波 福知山」

福知山市から明智光秀の冊子が発行されています。福知山市と明智光秀の関係は明智光秀が福知山城をつくり福知山市の街づくりに力を尽くしたと言われ、御霊神社に奉られています。福知山の盆踊りでも唄われ親しまれている人物です。こうしたことから明智光秀に関する研究がなされ歴史研究家などがそれぞれの分野で執筆されまとめられたものです。明智光秀を考える上で貴重な資料ですね。

「明智光秀の生涯と丹波 福知山」は福知山市役所で扱われています。

(お問い合わせ先)

〒620-0872 京都府福知山市字内記13番地の1

福知山市役所

(定価) 1,000円(税抜き)

明智光秀の人物像

明智光秀が歴史上に登場したのは本能寺の変までのわずか15年間で、色々な人が研究されていますが謎が多い人物と言われています。出自(しゅつじ・人の生まれ)は美濃(岐阜県)守護土岐氏(しゅごとき)の一支族(別れ出た分家・別家)とするのが通説になっていると言われます。

土岐氏は美濃源氏(清和源氏の流れをくむ一族・清和天皇系)の系列で、1528年~1582年(54歳)まで生きた人物で生まれた月日記録で異なり8月15日と3月10日と別れ月日は正確にはわかっていません。

光秀は幾たびかの戦で信長に才覚を認められ丹波を制圧し戦国武将の中でも優秀な武将であり、勢いを増す織田信長に認められていたのです。光秀は足利義昭の「足軽衆」だったと言われますが、「足軽衆」から武将としての才覚で一国の主になっていった人物でもあるのです。

光秀は当時の文化人・室町幕府官領家(室町幕府の将軍を補佐する役)につながる細川藤孝、吉田神社の神主 吉田兼見、堺の豪商で茶人の津田宗及、連歌師(当時連歌と言う歌詠みが行われていた) 里村紹巴との交流もあり武将としての手腕だけでなく文化人としての才能を持った人物だったとされています。

本能寺の変を起こす前に愛宕山に登って愛宕神社の西坊で里村紹巴らと「百韻連歌」を行いそこで詠まれた句が「ときハ今あめか下るし五月哉」で謀反の決意が込められた句だと言われています。

謎に満ちた謀反の動機説

(光秀単独犯行説)

怨恨説が一般的には通っていますが、不安説やノイローゼ説など沢山の説があります。

(黒幕説)

朝廷黒幕説、秀吉黒幕説、家康黒幕説、足利義昭黒幕説などこれまた多くの説があります。奇抜なのは、家康説にたち光秀は生きて天海和尚になった説まであります。

色々な説にたち映画なども作られていますが想像をするとなかなか面白いですね。

私は当時の社会が統一されていない中で考え方や倫理感も色々あり光秀の「謀反」・・・「悪」と言う考え方はされなかったのでなないかと思います。親子でも争う時代でいつ裏切りがあるかわからない時代だったと聞きます。信じれるものは自分しかなく、武将たちをまとめ戦で勝利していくには現代でいうトップダウンが徹底されていたのではないかと思います。主従関係もあやふやな中で人との信頼関係が築けたのでしょうか。陰謀の計画など企てることができたのでしょうか。

わずか15年で歴史に頭角を現した光秀ですが、自分の勢力を伸ばそうという強い意志がないとできなかったと思います。そんなことを考えると光秀の単独説にたちたいと考えます。光秀は信長を討つ機会を狙っていたのだと考えますね。時期も信長は朝廷の権力を奪い日本と統一を準備を仕掛けた時期にあたります。武士たちは朝廷の権力を利用して国を治めて言ったのが日本の歴史だと言われます。光秀は信長の武力の手薄を絶好のチャンスととらえ、朝廷のある京都・本願寺を襲撃し、朝廷を自分の支配下に治め、各地の武将たちを統治しようと考えたのではないかと想像してしまいますね。

歴史は資料も少なく、時の支配層が書いたものが多く史実を確認することは困難な連続と思います。そこで推理を働かせ史実を浮かび上がらせることは面白いものですね。皆様方も上記の冊子を購入され推理してみたらいかがですか。

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