映画・ジョーカーと日本文化・日本の鬼文化から見るハリウッド映画

映画・ジョーカーと日本の鬼

映画 「ジョーカー」がヒットしていますね。

ジョーカーはバットマンで登場する悪のヒーローと言える存在で映画「ダークナイト」は何か引き付けられました。

2019年配信の「ジョーカー」は善良な人間がいつしか悪人になっていく様子を「ジョーカー」を通じ描いていると言われていますが、人は善人であっていつしか過ちを犯し悪に染まることもあるものです。

映画「ジョーカー」は善と悪のとらえ方が聖書や西洋の考え方の中で作られたものだなと思いましたね。

日本では悪の代表と言えば「鬼」だと思いますが、日本の「鬼」は悪の代表と言えますが、鬼は神に奉られることもあり、日本で「鬼」は絶対悪にはなってませんね。

その例としては節分において「鬼は外」と言って豆を撒きますが「鬼は内」と言うところもありますね。

節分とは太陰太陽暦(旧暦)で季節の変わり目でである立春に行われる行事です。季節変わり目には邪気が入るとして陰陽道の邪気払いの行事です。平安時代には陰陽師活躍した時代で陰陽師の安倍晴明が有名です。節分の鬼は陰陽道との関わりがあるようです。

平安時代に書かれた「源氏物語」には鬼退治や怨霊退散させるために陰陽師が良く出てきます。

<源氏物語>

東宮の死後、年下の光源氏と恋愛関係に陥る(この間のなれそめが『源氏物語』では欠落している。源氏物語参照)。源氏は、美しく気品があり、教養、知性、身分ともに人に優れているために矜持の高い彼女をやがて持てあますようになり、逢瀬も間遠になる。源氏にのめりこんでいく御息所は、彼を独占したいと渇望しながらも、年上だという引け目や身分高い貴婦人であるという誇りから素直な態度を男に見せることができず、自分を傷つけまいと本心を押し殺す。
この自己抑圧が、以降物語の中で御息所を生霊、死霊として活躍させる。押し殺した妬心が、抑制の失われる度に身からさまよい出でて、源氏の愛する女君たちに仇を成すようになるのである。
「夕顔」の巻で源氏と逢引する夕顔を取殺した物の怪は、御息所のそれとする解釈もある(この説は誤りとされるが、多くの翻案作品で採用されたため、依然として人口に膾炙している。)。

映画・ジョーカーを日本文化・日本の鬼文化から見る

ジョーカーも悪の象徴と言える存在です。ジョーカーはユリウス暦1667年にイギリスの17世紀の詩人、ジョン・ミルトンによる旧約聖書の『創世記』をテーマにした壮大な初期近代英語の叙事詩から作られたと言われますが、「悪魔」を連想させせます。

と解説されている映画評論家の町山さんも説明されていました。

<失楽園>

ヤハウェに叛逆して一敗地にまみれた堕天使のルシファーの再起と、ルシファーの人間に対する嫉妬、およびルシファーの謀略により楽園追放に至るも、その罪を自覚して甘受し楽園を去る人間の偉大さを描いている。『失楽園』に対応する作品として『復楽園』(楽園回復)もある。ダンテ・アリギエーリの『神曲』とともに、キリスト教文学の代表作として知られる。
ミルトンは悪魔学の専門家ではなかったが、その当時に見られた悪魔に対する様々な説を総合した独自の解釈を作中に盛り込んだ。ミルトンによる解釈はその後のキリスト教に影響し、殊にルシファーに関する逸話に大きな影響を与えた。ミルトンの詩の中では、ルシファーはヤハウェの偉大さを知りつつも、服従よりも自由に戦って敗北することを選ぶ、一種の英雄として描かれる[注釈 1]。

西洋においては悪魔は徹底的に排除される存在で描かれることが多いですが、ジョーカー(悪、鬼)もそんな存在で描かれているようです。私が参加している「世界鬼学会」でも西洋の鬼と日本の鬼の違いは、日本の鬼は「絶対悪ではない存在である」と・・・ここに西洋と日本文化の違いがあるのではないかと・・・

私たちは映画「ジョーカー」が表す悪ををどのように感情移入して見ることができるのでしょうか?

鬼は時代によって変化してきていると言われますが、現代を照らす鬼として見る価値のある映画のようです。

スポンサードリンク