万葉集を知りたい

万葉集

万葉集と元号

万葉集二十巻がほぼ今日見る形で成り立ったのは桓武天皇の初期、天応から延暦にかけての時期(781年~783年)であり、その形成に直接かかわったのが万葉末期を代表する歌人、大伴宿禰家持(おおともしゅくねやかもち)であったと推察されると言われます。

「明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった」と言われます。

元号は中国の文献から選ばれるのが習わしであったことから、歴史上初めて日本古来の文献である「万葉集」から「令和」と決められたなどで、万葉集に関心が集まっているようです。

「源氏物語」を読んでいると生前退位は行われ、退位をめぐっての恋の模様や争いごとが描かれています。当時は生前退位は普通に行われていたようです。

元号は自然災害がおこるなどすると元号変更行われていたようです。元号一覧を見ると良くわかります。

*元号一覧

元号は「大化の改新」で良く知られる「大化」からはじまると言われていますが、長い歴史を感じます。この当時天皇はどのような思いで元号を決めたのでしょうか。その当時の世相が盛り込まれています。

新元号の「令和」を決めた背景がありその理由が述べられています。元号とは古代中国の君主制下に生まれた皇帝の時空統治権を象徴する称号であると説明されます。

日本は古代から遣唐使、遣隋使などにより文化を入れ、その文化は日本にあった形にして溶け込ませた国でもありますね。元号制度は生み出した中国は現代では元号制度は隆われていなくて、世界でも元号をつかっている唯一の国と言われています。

万葉集、元号と聞くと古き日本の文化をイメージしてしまいます。万葉集、元号を紐解いていくと日本人に流れる文化の源流にたどりつくような気がします。

万葉集

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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元暦校本万葉集
『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、奈良時代末期に成立した、現在日本最古とされる和歌集。全て漢字(万葉仮名を含め)で書かれている[1]。4,500首以上の歌を集めたもので(うち作者不詳が2,100首以上)[2][3]、759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が全20巻に分類収録されている。体裁が整ったのは759年から780年頃にかけてとみられている[2]。万葉集の詠み人は天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人などさまざまな身分の人々と考えられてきていたが、今日ではほぼ全ての研究者から否定されている[4][要検証 – ノート]。現存する最古の写本は11世紀後半ごろの桂本万葉集(巻4の一部のみ)、完本では鎌倉時代後期と推定されている西本願寺本万葉集が最も古い。
和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており、日本文学における第一級の史料である[2]。方言による歌もいくつか収録されており、その中には詠み人の出身地が記録されていることから、方言学でも重要な史料になっている。

万葉集はなぜ、何のために作られたのか謎に満ちたものですが、万葉時代と聞くと優雅は貴族社会を思い浮かべてしまいます。こうしたイメージは万葉集によるところが大きいと思います。大伴家持は貴族・歌人で三十六歌仙の一人ととされています。

しかし、古代豪族の大伴氏は軍事的伴造氏族で、天孫降臨の時、武装して天孫を先導あ天忍日命(おめのおいしひのみこと)を始祖とすると言われれいます。大伴家持は持節征東将軍として陸奥の多賀城に赴いたと言われるなど軍事に関わっていた人物だと言われます。

また、延暦3年(784年)には都が平城京から長岡京に遷都され、延暦13年(794年)に平安京に遷都するなど時代は激動の時代だったと思われます。

こうした時代の中で元号も制定され、万葉集も時の政権を維持していくために大きな意味があったような気がします。

万葉集は魅力的です。時に人々がが恋や暮らし、人との関係をどのように感じ生きていたのか読むと実に面白いと思います。万葉人と現代の私たち何か共通するものがあるように思いますね。

万葉から現代までの時の流れを感じて見たいと思います。

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