戦国時代の謎を探る・知将の武将

戦国時代は謎だらけ

戦国時代は映画やドラマばどで扱われていますが、比較的史実が解明されているのではないかと思われがちですが謎は多いですね。

戦国の世は毎日のように戦さが行われていたかと言えば、戦をするためには準備頭脳を使い準備を整えて戦っていたようです。また、武芸が優れたものだけが優れたものではなく頭脳を働かせ生き残っていったようです。

戦国の世も現代にように生き残るためには知性や教養は必須条件であったようですね。

戦国時代の武将たちはどんな考え方で戦国の世を生きていたかは残された資料も少なく謎も多いです。

戦国武将には知将と言われる武将がいます

明智光秀や毛利元就、真田昌幸、大谷吉継、石田光成などが知将と呼ばれる武将だと言われますが、武将たちは色々と知恵を巡らせていたようです。

戦国時代な武将たちは現代のような教育や研究機関が発達していない中でどのように学んだのでしょうか。学ぶところは寺院でお坊さんが先生だったようです。映画やNHK大河 ドラマでも戦の戦術や考え方などでお坊さんから知恵を授かる場面をみることがあるように寺と武将とは密接な関係でありました。

日本は空海(弘法大師)中国で真言密教を学び持ち帰り、中国の文化も広げたと言われます。その後遣唐使や遣隋使などで大陸から学ぶことになり、「戦わずして勝」で有名な「孫子の兵法」も良く読まれていたようです。当時の武将たちは大陸の書物などや源氏物語なども読まれ、武将としての知識も得たようです。

また、武家の起源にも関係しますが、公家社会との関係もあり、和歌やお茶などでも武将としての資質を高めていたようです。

知将の武将・明智光秀

戦国武将の一人で知将と言われる人物に明智光秀がいます。しかしなぜ主である織田信長を京都の本能寺を襲う謀反を起こしたのかが謎ですね。

知将と言われる所以はお城のづくりの技術の高さや戦のうまさは、豊臣秀吉より優れていたと言われます。

・明智光秀に関係する資料は少なく謎だらけのようですが、清和源氏の血筋で美濃生まれであったことは確かで土岐・明智一族だったことは確かなようです。歴史の表舞台にと登場する以前は謎がだらけですね。

光秀は名門の土岐一族であることを教えこまれたと思われ、本能寺の変を起こす前に愛宕山で張行した「明智光秀張行百韻」で「ときは今あめが下しる五月かな」と詠み、土岐氏族の復活を詠んだ句で本能寺を襲うことを決意したものだと言れる説もありますね。

こうした催しを行い文人たちとも親しく光秀の高い教養を示す催しだったことは確かなようです。

斎藤道三との関係

光秀は父は監物光国頭・蕃頭光隆・安芸の守光綱など特定はされていませんが、父の病死後、斎藤道三との縁が生まれたと言われます。道三の妻・小見の方は父の妹で、後に信長の正室になる濃姫は小見の方の娘で、光秀にとっては従兄妹にあたると言われます。

道三は光秀について「彦太郎(光秀の幼少名)は万人の将たる人相を持つ」と言い、「六韜・三略」と呼ばれる兵法書・礼法、さらに茶の湯、日本に伝えられたばかりの種子島銃の使い方まで教えたと言われます。

*このように武将たちも幼少より武将としての品格を備えさせられ知将となってったようです。

*戦国の謎の本能寺の変の動機は、信長の国収めの方法の違い、特に比叡山の焼き討ちなど非道と言えること起因として信長への謀反をおこなったのかもしれません。いずれにしても幼いころから学んできて培われたパーソナリティーの違いが本能寺の変を起こした動機のように思います。

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