暮らしと向き合う古典文学・枕草子訳する

古典文学から現代を見る

古典文学に見る日常生活・枕草子を読んでいます。古典ですのでなかなか難しいですが、読んでいくうちにそれなりにわかるような気がします。

枕の草子と私の日々を考えて見ました。

私たちは「あれもしなくちゃ。これもしなくちゃ」と考えて動く日々です。できもしないことで考え何故か忙しさに追い込んでいるような気がします。

枕草子は平安の宮中の様子が淡々とつづられています。平安の世に中は天変地異も起こり、現代と同じように安泰していたわけではありませんが、季節の移り変わる様子や、日々の暮らしがいきいきと綴られ魅力を感じますね。

枕草子 二の訳文

季節は、正月、三月、四月、五月、七、八、九月、十一、二月、その時々一年中趣があります。

正月一日、うららかで、改まった感じで人々は皆んな衣装や化粧念入りにして、帝も私自身も祝いをしてまことに趣があります。

七日雪の合間に若菜を摘みむと青やかで、普段はそんなものを近くで見ることもないので、宮中の中で大はしゃぎしている様子が面白いです。

 春の七草

「白馬」見物ということで宮中の女でない人たちは車をきれいに飾り宮中に見学に出かけます。侍賢門の敷居を通過する時は車が大きく揺れて、乗っているものどうしが頭をぶつけあったり、櫛が落ちたり、また折れてしまったりして皆で大笑いするのも面白いです。

建春門の左衛門府の陣も所では宮中の人が沢山いて、ふざけて舎人(貴族に使える下級官)の弓を取っては馬を驚かせ笑うのを見ます。

車の中からわずかに見ると、奥にある宜陽門の向こうに立蔀(たてじとみ・格子の裏に板をはった衝立)が見えるのが主殿司(とものずかさ・宮中の掃除などをしていた官)や女官が往来しているのは見馴れぬ面白さです。

いったいどれほどの人が恵まれた宮中を我がもの顔に振る舞うのだろうかと思います。

舎人(とねり)の顔があらわになって白粉(米粉・お化粧)の行きとどいていないところは、雪がまだらに消え残っているようで見苦しく、馬の跳ねて騒いでいる様子も大変恐ろしく車の中に引っ込んでしまいます。

八日、加階(昇進)になった人々が諸方へお礼に行くために車を走らせる車の音には普段と違った心のはずみが感じられて面白いです。

15日、どの家でももち粥の祝い膳をご主人にその粥の木杓子を隠しもっていています。

 七草粥

*当時粥を炊いた木杓子(粥杖と言われる)でこれで婦人の腰を打てば子供に恵まれるとされていました。現代の「ガキの使い」のゲームのようなものですね。

その家の老女格の女房や若い女房が隙をうかがい、打たれまいとして用心してしょっちゅう自分の背後に気を付けているそぶりは面白いものです。

どうやって隙を狙って打ったのか、うまく打った時は皆が面白がって笑う様は陽気な雰囲気で、打たれた人がくやしがるのももっともな話です。

婿君にそばにいる女房(仕えて女官)は女君(婿君の嫁)の腰を打つために忍びますが、婿君が笑いますが、「しっー」というつもりで手招きで止めます。

狙われている女君は何も気が付かずおっとりと座っていらっしゃいます。「ちょっとそこのものをいただきましょう」と言いざま、走り寄って打って逃げるとその場に居合わせた者たちは皆笑います。

婿君もにっこりとほほ笑み、女君も別に驚いたふうでもなく、ただほんのり顔を赤らめて座っているのは大家の姫君らし初々しさです。

女房がどうして互いに打ち合ったり、男の人も打ったりするようですが、元々冗談の遊びだのに、いっつたいどういうつもりなのか、打たれて泣いたり、腹をたてたり、打った人を呪ったり、不吉なことを口走る女房もいるのも面白い。

宮中などの万事きちっんとした高貴のお方のところも今日は無礼講で、上下の遠慮もない。

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春の徐目(左官、外官などを任命する宮中行事)のころなどは宮中の趣はまた格別です。

まだ、雪が降ったり、氷がはりつめたりするのに、人々は申し文(自分の希望する官位など昇進を朝廷に申請する)を持つて動きまわます。四位や五位のまだ年の若い人たちは意気揚揚として、前途ありげで頼もしいです。

年をとって白髪頭の人は女房に取りつぎを頼んだり、また女房の局に立ち寄ったりして、自分ははなはだ才能がある人物であるなど一人よがりの態度で話すのを若い女房たちは口まねして笑っていますが、ご本人はそんなことを知ってはいません。

「どうかよしなに、主上にも中宮様にも」と頭を下げて頼み込んで臨む官位を手に入れたものは甲斐あって大変結構ですが、とうとう手に入れられなかった人は本当に気の毒です。

三月三日、うららかに、のんびりと日がさしているのがいかにもこの日にふさわしいです。桃の花がちょうどこの頃咲きはじめるのや、柳の風情など改めて言うまでもないです。それもまだ、芽ぐんだという程度のところが風情があり、葉が開ききってしまったのは面白くないです。

美しく咲いた桜を長く手折って、大きな甕(かめ)にさしたものは大変風情があります。

桜がさねの直衣(なおし)に、出桂(いだしうちぎ)といった、しゃれたかっこうでお客様や兄弟の方、立派なお方が御簾の中の人と話しているのは誠に素晴らしいです。

四月、賀茂の祭りの頃は、本当に素晴らしいです。上達部(かんだちめ)や殿上人も袍(ほう・綿入れ)の色の濃いか薄いかという区分だけで、白襲(しろかさね)など皆同じ様子でいかにも涼しそうで爽やかです。

木々の木の葉は、まだすっかり茂りきってしない若々しく、一面の緑で、霧もないかりと晴れわたった空のたたずまいは、見慣れているけれども浮き浮きと人の心を浮き立たせます。

そんな日より、少し曇った夕方、あるいわ夜どまだ、遠慮がちになくホトトギスが、遠く、聞き違いかしらと思われるほど、まだ手探りように鳴いたのを聞くといったいどんな気持ちになるのでしょうか。なんとも言いようがありません。

祭り近くになって、誰も彼も申し合わせたように、青朽葉(あおくちば)や二藍(ふたあい)の着物地をくるくると巻いて紙にほんの申し訳程度に包んだものを持って行く来するのはこの頃らしい風景です。末濃い、むら濃いの染物も普段よりは風情があるように見えるのも今日この頃です。

女の子が頭だけはきれいに」洗って手入れしても、服装は普段のまま、綻びのところも大きく裂けボロボロになりかかったようなものを着ているものもいます。そんな連中が、「足駄に鼻緒をたてさせてよ」「沓の裏を打たせてよ」など大騒ぎして、祭りを待ちわびはしゃぎまわっているのもほえましいです。

普段は妙な恰好して飛んだり跳ねたりしている子供たちが、まわりの人たちが、晴れ着を着させて、身なりをきちんとさせると、法会(ほうえ)の時の定者(じょうざ)の坊さんのようです。親としてはどんなに気がかりなことでしょう。

なんとしても蔵人になりたいと思っているけれども、急にはなれない人が、祭りの当日、祭りの前駆の役で青色を着用したのは、そのまま脱がせないでおきたいからだと思われます。しかし、それが綾でないのでみっともないです。

*織物や染色の技法も出てきますのでわかりづらいところもありますね。

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