足利尊氏はこんなところで生まれたのか

 安国寺

 本尊釈迦三尊像

足利尊氏の中世を旅する

中世は知っているようで余り知らない時代ですね。映画やドラマでもあまり作られていないように思います。平安末期から室町時代は分からないことが多いです。

しかし、少し調べてみますと歴史の中で大変興味深い出来事も生まれています。足利尊氏もその一人です。なぜ足利尊氏は朝廷と戦をしたのか「蒙古来襲」や「南北朝時代」といわゆる二つの朝廷の存在など日本の歴史にないことも起こっています。

足利尊氏の生まれたところ

中世とは、足利尊氏とはどのような人物だったのでしょうか。中世とはどんな時代だったのでしょうか。尊氏の生まれたところを見学しました。

京都府綾部市「安国寺」は足利尊氏生誕の地に行ってみました。安国寺は綾部市安国寺町寺ノ段にあり国道17号線からJR舞鶴線、伊佐津川を渡り少し入ったところにありました。

この地域はのどかな田園地帯であり、尊氏が生まれて時代はどんな景色が広がっていたのでしょうか。想像すると安国寺の荘園として田畑が作られいて、修行僧もいたのではないかと思い、静かに暮らす人々の暮らしを思い浮かべてしまいました。

中世の幕開けはここから始まったのかと思うと味わい深いものがありました。

綾部の安国寺の元の名は光福寺

安国寺は993年(平安時代)の天台宗の僧の源信が作った子安地蔵菩薩を安置し光福寺としたのが始まりとされいます。

安国寺の地域は、上杉科家が収める地域だったのですが、上杉家は元々は京都の中級貴族の出身で、1252年に嵯峨天皇の皇子の宗尊親王が6代将軍に就任する時に介沿えとして行ったのが上杉氏で、この時に丹波国何鹿群上杉荘を賜ったと言われています。安国寺は上杉氏の氏神とされています。

上杉家の上杉頼重(鎌倉在住)の息女が足利貞氏と結ばれ、安国寺の子安地蔵菩薩に祈願すること7日「行満る暁、星呑む」との夢を見て懐妊し、光福寺(安国寺)にて尊氏公を安産したと伝えられます。

足利尊氏は全国にある安国寺の筆頭

足利尊氏は幾多の戦を行い室町幕府を作っていくのですが、南北朝のはじめ、夢窓国師の進めで元弘乱などで亡くなった人の供養のために全国二島六十六ケ国に安国寺を建立することにします。この時に名前が光福寺から安国寺に変わったと伝えられます。

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中世の足利尊氏の時代

足利尊氏は室町幕府の初代将軍は知られていますが、足利家は鎌倉幕府の北条家との関係が深く、北条政子の妹と先祖が結婚をしていて、北条一族と結婚を繰り返していたと言われます。鎌倉幕府の要職についていた一族だったのです。

鎌倉幕府が荘園管理などを原因として、各地地頭などが、幕府の政策に対しての不満が高まるなどの時代の中で浮上してきたのが足利尊氏です。

また、朝廷も後醍醐天皇の「建武の中興」という、鎌倉幕府から朝廷のの権威を取り戻すための政治が進められ、足利尊氏が擁立した光明天皇とご醍醐天皇が吉野行宮でこなつた南北朝時代の将軍です。

後醍醐天皇は鎌倉幕府討幕を企て(元弘の変・1331年)ますが、幕府に露見して後醍醐天皇は隠岐に流されます。後醍醐天皇に呼応したのが楠木正成などです。足利尊氏は幕府側の人物ですが、幕府から寝返り御醍醐天皇につくことになります。後醍醐天皇は隠岐を脱出して「建武の中興」が行われることになります。

しかし、後醍醐天皇の政策は関東武士の不満が高まります。尊氏は朝廷側に立ち、これらを制圧していきますが、朝廷に誤解され謀反とみなされ、尊氏討伐の命が下されてしまいます。

このことを知った足利軍は京都に攻め登りますが、楠木、名和、新田の軍勢が迎え打って尊氏軍は敗北して九州に逃げることになります。

この時の足利軍の軍勢は5,000と言われています。九州に落ちる前に尊氏は九州の武将に味方をつのり、九州の武将はみな尊氏についたと言われています。

尊氏は九州の大軍を率いて都に攻めのぼり、都を制圧し光明天皇(北朝)を擁立して、征夷大将軍となり室町幕府を開いていくことになります。

また、後醍醐天皇は京都を脱出して吉野行宮」(南朝)がひらかれます。

南北朝時代の幕開けです。

足利尊氏のプレゼン・人を束ねる力は凄い

足利尊氏は関東の武士や九州の武士をどうして束ねていったのでしょうか。プレゼンの仕方を学んで見たいものです。

尊氏の天性に備わったものかもしてません。尊氏はその場その場で考える人物で、余り後先を考えないで行動したとも言われます。また、部下が止めるのを聞かずに危険を顧みず敵陣に戦闘になって切り込んでいったとも言われます。

尊氏の家系はそもそも変わった人物が出やすい家系で躁鬱の傾向があったのではないかという方もあります。尊氏は相当変わった人物だったようです。

尊氏の人の集め方は、自分の利益を考えないで「人に与える」ことを考えていたと言われます。例えば、この戦に参加すればこの土地を提供しようとか、人の考えていることを実現させようという参加する人の立場に立ち話をしたとも言われます。

戦国時代や江戸時代のように力や制度でまとめることとは違う形でまとめていった人物だったようです。

*今日の人の思うことで関心を集めるプレゼンテーションだったように思いますね。学ぶべき点があるかもしれません。

*中世の時代は複雑で難しいですが、色々と未知の知られざることが埋もれているように思います。調べるもの楽しいと思いますね。

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