ちはやふる・小倉百人一首とは

 百人一首の謎

「ちはやふる」の短歌

林直道さんの書かれた「百人一首の謎」を読んでいます。百人一首は面白いと思いましたね。

「ちはやふる」という言葉に関心が寄せられていますが、意味が分からない言葉です。しかし何か万葉時代の香りがだだような言葉ですね。

「ちはやふる」は百人一首で「ちはやふる神代も聞かず竜田川からくれなゑに水くくるとは」・・・在原業平朝臣(ありわらのなるひらあそん)

*在原業平(825年~880年7月9日)は平安初期の六歌仙・三十六歌仙の一人と言われる歌人です。

*「ちはやくると」ちは神にかかる効果的に表現する枕言葉です。

*立田川は奈良県に流れる川

*くくるとは絞り染めのこと

 豆絞り

(染物の技法で大豆を使うこともありますが、この歌から当時、豆絞り染色の技法は始められたばかりだったのかと思いますね)

(ふしぎなことがあったと言う神代にも、水の括り染め(くくりそめ)なんて聞いたことがない。立田川が紅葉で染まっているよ・・・・という歌の内容です)

「ちはやふる」で蘇る百人一首

「百人一首」は中世の大歌人と言われる藤原定家が1235年頃(嘉禎元年)古来の歌人から一人一首づつ選び集めた秀麗な和歌集です。

百人一首を読むと子供の頃に遊んだかるたを思い浮かべる方もあると思います。近年ではお正月の遊びとして、かるた遊びをする子供たちは減少しているようです。

そんな中でも「競技かるた」に関心が示され「ちはやふる」の映画が良く見られてていますね。

百人一首が編まれた時代

藤原定家が生きた時代は平安時代末期から鎌倉時代初期になります。歴史は公家社会が終わり武家社会に移っていく時代です。その時代の変わり目となるのが「承久の乱」と言われています。

「承久の乱」とは朝廷・後鳥羽上皇と武家政権・鎌倉幕府の北条義時との武力衝突ですが、朝廷が武家政治から朝廷政治を取り戻すための乱であったように記載されることがありますが、諸説があるようです。結果は朝廷・後鳥羽上皇は敗北し隠岐に流されてしまいます。(当時の刑しては死刑と言う制度がなく最大の刑罰は都から離れた地に送ることが最大の刑罰だったようです)

しかしながら、「承久の乱」(1221年)で武家政治の力は増したことは確かなようです。日本の歴史の上で大きな節目の戦いであったことは間違いないでしょう。

百人一首と後鳥羽上皇

百人一首はこうした「承久の乱」という時代背景ので編まれたものです。この百人一首には隠岐送りされた後鳥羽上皇への思いが込められ編まれたのではないかと言われます。表だって後鳥羽上皇を忍ぶようなことを言えば当時は同罪とみなされる時代でもありますので、百人一首と言う形で上皇を偲んだとも考えられます。

また、時代がめまぐるしく変わる様相もあり、公家社会の昔の良き時代を懐かしんで編まれたのかも知れませんね。

歴史を知ることは現代を知ることです

歴史は繰り返すと言われますが、繰り返すのではなく、昔を振り返りながら現代や未来を見据えていくことだと思うのです。「ちはやふる」の「競技かるた」に関心が集まるのその証かも知れませんね。

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